夏休み

蝉の声が聞こえ

冷蔵庫が夏野菜で埋まって

空は曇天続きだけれど

それでもやっぱり夏が来た

 

蝉の声を聞いたのは一昨日の昼間であったが

今年初めてのそれに

少し季節がずれ込んで

また学生ではなくなり夏休みという定めもないことから

これまた否応無しに夏を感じざるを得なかった

 

夏野菜が大好きで

ナスにオクラ、かぼちゃにピーマン

毎年食卓にそれらが並ぶと夏を感じた

 

そして秋が深まってきても

一向に夏野菜を欲し

コートを羽織ると同時に

それらは食卓から消えていく

 

なので本日

冷蔵庫の夏野菜を見て

あら、もうそんな季節?

と動揺してしまうたのも

季節感のない去年の食卓のせいであり

夏野菜を特に愛する私のせいでもあった

 

さて話は変わるが

私はとても影響されやすい人であるので

エッセイを書いていても文章の書体がしばしば変わるのであるが

今は谷崎潤一郎の『細雪』を片手に1日を過ごしているために

少しばかり古い書体で書いてしまうことを許していただきたい

 

『細雪』を古本屋で購入し

パラパラとめくっているうちに

世間体や他人の目を気にするといった日本特有の癖が

何とも細やかに描かれ

それに共感するとともに矢張り

たった100年ほどしか経っていないのに

こんなにも日本のしきたりや文化が失われたのかと

少し驚いた

 

というのも

蒔岡家の四姉妹のうちの3番目の雪子が

中々見合いがうまくいかず30を過ぎてしまい

他の親類が「他の家からどう思われるであろうか」とそわそわしているのだが

まず見合い婚というものがこの100年でにわかに失われつつある文化であることを感じた

 

見合いと一言に言っても

私たちが想像しているような会ってみて気が合えばなんていう軽いものではなく

家のものが総動員で相手の国元まで人をやり、性向や人柄まで調べあげた上で初めてお目にかかるという、とても苦労のいるものである

 

私自身、田舎の古い農家の生まれであるために

本家・分家、姉妹の上から順々に結婚すること、家長がすべての決定権を握り女・子供はほとんどそれに従うしかないことなど、昔ながらの日本特有のそれが何となく幼い頃から身についており、私の親の世代までは見合い婚が普通であり、その見合いも矢張り相手の国元まで人をやり丁寧に調べあげた上で行われていたのであるということも知っていた。

 

というのも、私の伯母にあたる人は長女であるために見合いを迫られ、当時付き合っていた恋愛相手とは別れさせられ、無理矢理にでも将来有望であるとされた男性と見合いをしたそうだ。

そうして、伯母はその男性と縁があり婚約しようとした最中、相手の男性の健康状態に難点があるということで家族に結婚を止められたが、長女で気が強い伯母は「もうあなたたちの言うことなど聞きません」と言わんばかりにその男性と結婚し九州へ行ってしまった。

 

そう言う話を、幼い頃から何度も聞いては「ふむふむ」と納得していたのであるから

もし私が間違って100年前に生まれていたら、今頃適当な男性を家族やら親類やらが見つけてきて見合いをさせられ、いそいそと嫁に行っていただろうと思う。

 

そんな日本特有のしきたりや家父長制をこの本は蒔岡家という大阪の旧家を通して伝えているのであるが、もう今ではほとんど通用しないものばかりであることに気づかされる。

しかし、「他人の目を必要以上に気にする」という日本人の癖はコロナウイルスの出現でまたもや顕著に世界に広まったと思われる。

 

世界の各国がこのウイルスを脅威としながらも、マスクもしないで密な場所へ出かけているのをテレビで見ていると「なんで」と言わざるを得ない。

そういった点で考えると、日本人は外に出るものはマスクを必ずし、密を避けるよう努力を重ねているように映る。

それは「うつされたら嫌だ」というよりも「自分がうつしたら嫌だ」という意識が大きいからであり、それは引いては「他人の目を気にする」国民性を象徴しているように感じる。

 

蒔岡家が世間体を気にし、雪子の縁談に家族全員が気を揉んでいるという図式から

今のコロナ禍での日本の図式をまたもや発見できるのである。

この100年で変わったものは確かに多く、またその影響も計り知れないほど大きいが

日本人の根幹にある考え方や物の見方はそんなにも変わっていないのであるなと感じた次第である。

 

ちなみに最後になるが

古本屋に立ち寄った際、『細雪』は上・下巻しかなかったために私は全2巻だと思い込んで

つい先ほど下巻を100ページほど読み終わったのであるが

何かがおかしいと感づいて、調べてみると中巻というものを飛ばして読んでいるらしいのだ。

中巻には、約2年と少しの期間の蒔岡家の様子が描かれているそうなのだが、それをすっ飛ばしてもう100ページまで読んでしまったため今更どうして良いか頭を悩ませている。

というのも100ページくらいまでは、何の違和感もなく読んでいたのであるが、四姉妹の末っ子の妙子の恋愛話が持ち上がった瞬間、私の知らない物語があたかも知っている風に描かれ始めたので驚いた。

 

ただでさえ本を読むのが億劫な私が意を決して取り掛かったこの読書だが、この中巻をどうしてやろうかという考えが浮かんでから全く読む気をなくしてしまった。

机には読もうと思って借りた・買った本がずらりと首を長くして待っている。

積読になりかけている私の耳に蝉の声が聞こえ始めた。

感情に振り回されて

はあ、とため息をついて椅子にもたれる。

今日は疲れたなあと思いながら、1日を振り返ってみると大した仕事はやっていない。

では何に疲れたのだろうと考えを巡らせると、それは大抵感情的なものであったりする。

 

悲しんだり、喜んだり、怒ってみたり

傷つく言葉を言わないように気を使ってみたり

思い通りにいかないことに頭を悩ませたり

一人になった途端に鼻歌を歌ってみたり

トイレで涙を浮かべてみたり

 

だいたいそんな日は家に帰ってみて、初めて自分が疲弊していることに気がつく。

 

学生時代は、(尤も高校生の頃などは)それに耐えられずしばしば友人に当たっていた。

感情を自分で支配できないことに苛立ち、さらに追い込まれていく。

そうすると口もきかなくなり、笑いもしなくなる。

「おはよう、今日は元気がないね」という言葉さえ、癇に障って「うん」しか言わない。

彼女たちはいつもそれを受け入れ(受け入れていたのかは定かではないが、何も言わず黙って)そばにいてくれていた。

 

今ではそんなことは滅多になくなり、「大人になったなあ」などと感心しているのだが

それでもやはり感情の起伏に悩まされる日もあるのだ。

高校生の時のように表に出さない術を身につけ、ある程度は感情をコントロールできるようになったが、表に出さないことによって心がモヤモヤしている次第である。

 

かといってあの時分のように、感情に振り回されて「起伏の激しい女」などと思われたくもないので、これでいいのだと言い聞かせているのであるが、このままだと感情自体を感じられなくなるのではないかと恐怖心に「自分だけには嘘をつかないでおこう」と決めた。

 

「ちぇっ、あいつなんなん。自分が仕事できるなんて勘違いしてさっ。ああいう人間にはなりたくないよねっ。ほんっといらいらするわあ。」なんていうのは日常茶飯事で、いつもはこの考えさえ悪いような気がしてすぐに「いやでも、あの人も頑張ってるんだよな。」なんて気持ちをすり替えて生きてきたが、今後はそのイライラも自分の中で受け入れることにしたのだ。

つまり、イライラしたことを帳消しにはしないということにした。

 

自分の感情に蓋をしていると、もはや何も感じられなくなるから、感じたものは全て受け入れて処理する。

もちろん表には出さない。

すんごいダサいから(高校生のわたしは最高にダサかった。)

 

ちなみに、負の感情を表に出して感情を支配できていない人といるととても疲弊する。

気を使うのだ。

親友に謝りたい、こんな思いを3年間もさせていたなんて。

 

もちろん、嬉しいことが起こったら飛んで喜ぶし涙も流す。

そうやって感情を奮い立たせて、心を潤していかないといつかは枯れるのである。

 

今のわたしにとって一番大切なのは、感情である。

あんなに豊かな感受性で生きていた少女時代を過ぎて、今1日の感情数は格段に減っている。

「あれ、今日は何も感じなかったね」なんて日も増えつつある。

 

そんなのは嫌だ!

眼に映るもの、肌に触れるもの、耳に触るものすべてに刺激されていたい。

感情が爆発してくれないと、このようなエッセイも絵も描けなくなってしまう。

全ての創作活動は、感情の深さによって生まれるもので

何も感じなくなったら、何も生み出せないのだ。

 

だからわたしは自分の感情に蓋はしない。

表には出さないが、自分の中で受け入れる。

マイナスの感情も、プラスの感情も、全てわたしの財産だと思っている。

 

追記

最近とても頭を悩ませていたのが、負の感情をどう処理するかという問題だ。

このエッセイを書いていて、わたしはイラストにも詩にもエッセイにも当たりたくないので、怒りをぶつけるような、他の人が読んで・みてくれた時にイライラをもらうようなものは一切製作しないことにした。

できれば喜びや嬉しさといったものを作っていきたいが、それだけでは深みが足りない気がしていた。

 

そんな時に、原田治が「僕が考えた『可愛い』の表現方法は、明るく、屈託がなく、健康的な表情であること。そこに5%の淋しさや切なさを隠し味のように加味するというものでした」(『OSAMU GOODS STYLE』2005)と語っているのを見つけて、これを読んだ際にポンと膝を打った。

なるほど、ただ屈託のない明るさだけでは人の心をつかめない。そこに淋しさや切なさが感じ取れるからこそ人間味があっていいのではないか。

 

私はここに大好きな昭和歌謡曲の大事なポイントも隠されている気がした。今でもテレビなどで「昭和ヒットメドレー」など現代でも昭和歌謡曲が歌い継がれるのは、この”淋しさと切なさ”が歌謡曲の大きな根幹としてあるからではないかと考えている。

 

負の感情にも様々種類があるが、この淋しさと切なさは昔から人の心を掴んで離さなかった。

万葉集の時代から、桜の花びらの散るのをみて過ぎゆく春の淋しさや儚い命への切なさを多くの人が歌ってきたのも、それらが人の心を大いに揺さぶるものだったからであろう。

表現するには難しい感情であるが、それらを自分のエッセイやイラストで表現できたらいいなあとのんきに考えている。

詩とわたし

私が描く最近のイラストはどれも乙女チックで、実際の私とのギャップが生まれつつある。

というのも、可愛い女の子やピンク色を使うのは描いていて楽しいのであるが、それにしても乙女チックすぎるかもしらん。

私はその絵に詩までつけるので、なおさら乙女パワー全開なのだ。

 

さて実際の私は化粧もままならず、寝起き三食だらしなく毎日を過ごしている。

この絵の中の女の子たちのように恋に恋しておらず、全身の毛も生えっぱなしだ。

 

では、こんな絵や詩を描かなければいいではないかという話になるがそうもいかない。

描きたいと思うもの、目につくものはいつだって私の乙女心をくすぐるものなのだ。

 

絵を描くことについては、楽しいし女の子特有の柔らかさやピンクの可愛らしさに触れられるため今の所問題はないのだが、問題は詩の方である。

乙女心を歌う詩などこの世に何千とあり、もはや恋歌は万葉集の時代から変わらぬものだ。

私だって恋したことがあるので、まあまあその恋心というものを知っているとみて書いているのだが、最近は詩を書くのが億劫になってしまった。

 

あなたを思って眠れぬ夜も

あなたに可愛いと思ってもらいたくて買った服も

あなたと目があうときめきも

もう全て過去の彼方に消え去り、あとはその残像だけが残っている。

 

しかし、絵が何と言っても乙女チックなので詩も乙女心に書かなければならないのだ。

なので誤解しないでほしいが、私の詩は「絵の中の女の子」が書いているのであって決して私自身が書いているのではない。

実物の私は、先にも述べたが寝起き三食だらしなく、恋に恋もしていない。

 

いつまで私の乙女ブームが続くかわからないが、恋に恋する全ての女性に共感してもらえるように私も乙女心を取り戻そうと思う。

わがまま読書

最近はもっぱら、エッセイしか読まなくなってしまった。

昔は、と言っても小学生の頃は本の虫だったのに、いつの間にか活字離れをしていたのだ。

 

小学生の頃、と明確に断言できるのは本当に本が大好きだったから。

特に江戸川乱歩の『怪人二十面相』シリーズは私のお気に入りだった。

皆さんご存知、明智小五郎と小林少年率いる少年探偵団はかの有名なあのアニメの元になっている。

江戸川コナンと名乗るその所以も「江戸川乱歩」から来ているのは有名な話である。

 

小林少年率いる少年探偵団は、当時の私より少し上のお兄さん的な存在だった。

まず大抵は、お金持ちの坊ちゃんかお嬢さんが夜中に恐ろしい体験をする。

カーテンが揺れ、部屋の中に何者かがいたような気配を感じるのだ。

それは夢かもしれないし、現実かもしれない。

そう思っている矢先に、その坊ちゃんかお嬢さんは誘拐されて、残された家族は震え上がる。

そこで登場するのが、明智探偵と少年探偵団である。

 

明智探偵と言っても、大体の捜査は少年探偵団の仕事である。

捜査が進むに連れて、さらに恐ろしいことが起こる。

誘拐された子供が蝋人形にされて送られてくるのだ。

家族は悲鳴をあげ、少年団も奇々怪界なこの現象に頭を悩ませつつ犯人探しを始める。

 

少年団は、その子供である見た目を生かし自ら囮にだってなる。

そうして犯人の隙を見て追いかけ、町外れにある洋館が怪しいという結論に至るのだ。

彼らはどんなに奇妙で怪しい洋館にも潜入していく。

明智大先生にすぐに相談すればいいものを、なぜか彼らは洋館に吸い込まれるように入って行ってしまうのだ。

明らかに、何かがありそうな廃墟と化した煉瓦造りの洋館は子供心に想像しただけでも恐ろしい。

 

そして案の定、恐れていることが現実になる。

小林少年か、あるいは団員の誰かはいつもその怪しげな洋館の中で、これまた怪しい男に捕まり、そして謎めいた部屋に連れていかれるのだ。

何されるかわからない。蝋人形にされるかもしれないし、奥から野獣が出て来て食べられるかもしれない。

洋館の中は、外観では考えられないほどに広く、地下室まであり、すべてがからくりだらけなのだ。

まんまと犯人の罠に引っかかった少年らは、洋館の中で命の危機を迎える。

 

このシリーズは全24巻ほどあり、ほとんど同じようなあらすじだが、トリックや仕掛けが異なるので実に面白い。

周りには江戸川乱歩なんて読んでいる小学生なんていなかったため、その優越感も相まって私はこのシリーズが大好きだった。

 

大人になって読んでみても面白いのだが、こんなに面白い少年向け小説を書けるのならば、江戸川乱歩の大人向け小説はさぞかしおどろおどろしくて、ページをめくる手が止まらないのであろうと思った。

しかし、大人向けの江戸川乱歩の小説は、まだ今の私には難しいらしい。

さっぱりついてゆけないのである。

 

小学生で江戸川乱歩にはまった私だったが、中学生になると星新一先生のショート小説にはまってしまう。元はと言えば、これがエッセイしか読めなくなってしまった原因なのではないかとも思われる。

星新一の短編は、それはもう短編中の短編で、それこそ「ひと駅」シリーズの先駆けだろう。

近未来的な舞台設定、5ページほどしかない文字数の中で読者にアッと言わせる展開を魅せるのだ。

「こんなに短い時間で、世界が広がるのならば一週間かけて一冊の本を読むのなんて……」

となってしまった。

 

そこから携帯を手にしたことも相まって、私は活字離れになってしまう。

やっと大学生になって本を手にしたはいいけれど、長編小説は読む気になれず、手を出したのが

徒然に作者の思いを綴ったエッセイというジャンルだった。

 

作者の人間性がすべてこの文章に現れるため、エッセイには作者との相性が大事である。

「あッ、ちょっとこの人とは合わないワ」というのは日常茶飯事で、よくよく考えればそんなことは当たり前なのだ。

世の中にいる全ての人間とウマが合うわけではあるまい。

職場でも大学でも、嫌いとまではいかないまでもなんとなく気が合わない人は大勢いるものだ。

 

そんな中で、ピタっと合うエッセイストを見つけた時の感動ときたらこの上ない。

「やだッ!こんな素敵な文章を書く人がこの世にいるなんて、わたし、人生損していたかもしれないワッ!」となる。

アマゾンという現代の素晴らしい手段を駆使して、その作者の本をかき集める。

本屋にも、もちろん古本屋にも、足しげく通い新作が出ていないかチェックする。

雑誌のコラムさえも読みたくなり、手にとってみたりする。

 

とにかく、その人が書いた文章なら一文だって取り逃がしたくないのである。

その一文が心にぐさっとくるのである。

このリズムが欲しいとなるのである。

全て私のものにしてやろうという気持ちでページを開くのだ。

 

そうは言っても、エッセイしか読まないのは良くないのだ。

「若者の活字離れ」という報道にムッとしながらも、その通りなので反論はできない。

最近気になるのは、川端康成の「雪国」である。

ただでさえ、5、6ページのエッセイまたは短編しかここ数年読んでいない私が、そんな大作を読めるのかいささか不安だが、ここは勇気を出してエイッと飛び込むしかない。

 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

せめて、主人公の名前ぐらいは知っておこう。

ページをめくる手が止まらないうちに。

チョコ断ち

またニキビができた。

月に一度現れるこいつは、毎度のこと私を悩ませる。

 

プツウというふくらみができた時点で

「ああ!もう!」という気分になる。

 

それが好きな人に会う前日ならなおさら最悪だ。

「こういう時に限って出て来るのよね。つい昨日までツルスベ肌だったのにさ。」

どこにも発散できない怒りのようなものが湧いて来る。

「だから、チョコはやめるって誓ったのに!」

 

過去の自分に当たってもしょうがない。

でも実際、私は何度もチョコ断ちを決意している。

 

小学6年生の時にチョコレートを食べ過ぎて蕁麻疹ができ、決意。

大学生になりニキビができ始めて、決意。

このあいだの五月また蕁麻疹ができて、決意。

チョコにカフェインが入っていると知り、決意。

そして今またニキビができ始めて、決意。

 

何度決意しても、いつの間にか口にしている。

知らず知らずのうちにチョコの袋を開け頬張っている。

「やっぱり、おやつはチョコじゃなきゃね。」とどこかのメーカーのCMめいたことを呟きつつ、次々に手を出してしまうのだ。

 

その始末が一週間後に現れる。

そしてまた今日も「はあ、やっぱりチョコ断ちしなきゃね。もう絶対食べないぞ。」と空に誓っている。

何日続くか、ダイエットと同じで決意は固くないと続かない。

 

チョコレートの優美な甘さととろける口どけ、それさえなければ辞められるのに。

もう惑わされないぞ!決して口に入れるものですか!

悪魔に誓って口にしません。

青春を生きる全ての乙女たちへ

恋煩いは、もはや治療不可能な病である。

 

彼のことを考えると、ご飯も満足に喉を通らない。

急に”うっ!?”となる。

彼だけで満腹なのだ。

 

常にポケ~っとしており、気づいたら1日が過ぎている。

それでも夜も寝るまで彼のことを考えている。

そういう日に限って夢には出てきてくれない。

 

インスタグラムやツイッターの彼のアカウントを何度も見ている。

会っている時間よりも、会わない時間の方が好きが増殖していく。

写真や妄想で過ごしたのち、彼に実際に会って見ると

「あれ、こんな感じだったっけ?」なんて思うこともある。

妄想の彼に恋しちゃっているのである。

 

青春という名の電車をとうの昔に降りた私には、この恋煩いがとても苦痛になってきた。

とにかく疲れるのだ。

一日中妄想したり、彼のことを考えたり、頭が疲弊する。

 

だから恋煩いの薬が欲しい。

彼への思いが減るのならば、なんでも飲むだろう。

この切ない胸の痛みが減るならば、今すぐにでも処方箋をもらいにいくだろう。

病名の欄に”恋煩い”と書かれても、致し方ない、恥さえも捨てて病院にいくだろう。

 

中高生の頃はこんなことはなかった。

恋に恋していること自体が大好きで、その時間さえ愛おしくて、”ザ・青春”を体全体で感じていたのだ。

彼を一目見るために、校舎を走り回ることだってできた。

彼と話すためなら、早起きをすることだっていとわなかった。

 

もうそんな体力も気力もない。

だのに、心だけはいっちょまえに恋煩いをするのだ。

でも恋をしていないと死んでしまう気がして、やめられない。

マグロが泳ぐのをやめたら死ぬように、私は恋をしていないと死ぬらしい。

だったらいっそ、捕獲されて鮮魚のまま高級な寿司屋のガラスケースに並ぼう。

 

若干23歳でこんなこと言っていたら、婚期を逃しその上恋すらも面倒になり、老後は数少ない友人の死を見届けながら孤独に死んでいくことになる。

 

「恋するには遅すぎると言われる私でも、遠いあの日に迷い込みたい気分になるのよ」

と竹内まりやが歌っているが、恋するには遅すぎる年齢とは何歳なのだろうか。

この歌詞に共感してしまうということは、もはや私は恋するには遅すぎる年齢なのかもしれない。

 

恋に疲れてしまう日が来るなんて夢にも思わなかった17の夏。

ありふれた恋愛ソングに胸打たれ、黄昏の空を潤んだ瞳で眺めていたあの日。

彼の一言、全ての動作に胸ときめかせ恋に躍起になっていた春の風。

 

私の分まで、恋に恋して夢を見て。

全力で駆け抜けろ、青春を生きる全ての乙女たち!

さようなら埼玉、生まれ故郷

親もその親も、墓を辿れば江戸時代まで私の家系は埼玉県に生を享けてきた。

埼玉の真ん中は、何もないただ平野が続くだけの自然豊かな場所だ。

見渡す限りの畑の中で幼少・少女時代を過ごした私は、高校を卒業するとともに逃げるように埼玉県を出た。

 

横浜はそれはもう素敵なところだった。

初めてランドマークタワーを見上げた時は恐怖さえ感じるほど、その高さに驚いた。

馬車道のレンガに感動して、山下公園の優雅さに憧れて、やっぱり横浜っていいよな~と思った。

『ブルーライト・ヨコハマ』などに歌われるような恋愛情緒がよく似合うな~とも思った。

 

一方、埼玉には何もない。

絵にもならないため、誰もこの県に恋愛情緒を歌う人はいなかった。

 

そして横浜には、何より海があった。

海への憧れを語る時、私はどうしても埼玉県民であることを自覚せざるを得ない。

テレビでもよく埼玉県民が海への憧れを語っているが、これはもう県民性なのではないかと思うほどに埼玉県民は海が大好きだ。

 

ディズニーランドに行く時、皆ワクワクするでしょう。

私もそれはそれは楽しみにして行くんだけど、電車から東京湾が見えた時にいつも「はっ」と息が止まる。

東京駅から、京葉線に乗り換えてよく分からない駅を通過していると急に地下から地上に出て、右側に東京湾が広がるあの瞬間。

「これから夢の国に行く」というワクワクと「海の雄大さ」に対する感動が入り混じって、海の思い出の中でも最も好きな瞬間だ。

「わあ~~」と声にでも出してしまいそうなほど大好きなのだ。

(隣に誰か友人などがいれば実際に声に出している。)

 

海に関していえば、『浜辺の歌』が好きなことも海への憧れから来ているのかもしれない。

私の中で『浜辺の歌』の浜辺とは湘南あたりの海を想定している。

朝に、夕方に浜辺を歩くと昔のこととか昔愛した人とか思い出すよね~という歌詞だが、私も同感である。

というか昔どころではなく、前世にまで思いを馳せている。

 

私は平安時代らへんに生きていて、あの湘南の浜辺を歩いている。

1000年前も今も、変わらずに海は私のことを見ていてくれる。

あの時代から概念も着るものも、恋愛も生きる意味も全てが変わってしまったけれど

この海だけはあの頃と変わらないわね、という感じである。

 

約100年前に作られた歌だが、もはや前世の私が書いたのではないかというほどに運命を感じている。

竹下夢二が表紙絵を担当したのも、なかなか当時としては粋な計らいではないか。

この曲にまつわる全てが大好きだ。

 

というように、埼玉県民であるがために海を愛し

埼玉県を嫌悪し、この県に骨を埋める気はないとまで宣言しているが

未だに埼玉県を出ることはできていない。

埼玉県の真ん中で、カエルの合唱を聴きながら20代という輝かしい時代を生きている。

 

今は嫌悪の対象であるが、自分が死ぬ時に思い出すのはやはりあの自然豊かな田舎町だろう。

秩父連山に沈む夕日や、カエルの合唱、三時のお茶の時間、重いランドセルを背負って走った畦道や友人の声、死ぬ時になったらきっとこれらを思い出して静かに眠りにつくのだろう。

 

それでも死ぬ時は、港区か横浜の海の見える病院がいい。

そしてそのまま、骨も東京か横浜に埋めてほしい。

女の子も大変

イケメン一人で、空気が変わるというのは本当らしい。

私はこの目でこの肌で痛感した経験がある。

 

高校生のある日

私たちのクラスは女子が大半を占め、ワイ談や下品としか言いようがない言葉が飛び交っていた。色で例えるなら塒を巻いた深緑と言ったところだろう。

 

数少ない男子は、もはや男子ということさえ忘れられ彼女たちの陰でかすかに息をしていた。

着替えも同じ部屋で行なっていたし、クラス内カップルどころか3年間噂一つも立たなかった。

 

そんな私たちにも意識する男性が存在した。

隣のクラスに、とびきりのイケメンがいたのだ。

「朝M君とすれ違っちゃった、もしかしたら目があったかもしれない、私のことを見て微笑んでいたのかもしれない、どうしよう!!」

「もしM君が彼氏になったらどうする?ずっと彼を見てられるんだよ、幸せだよね。まだ名前さえ覚えられてないけれどさ。」

そのM君が体育のために着替えているなどという情報を手に入れれば、友人と共にさりげなく見に行ったりしていた。

 

そんな彼が一度だけ、私たちのクラスに訪れたことがあった。

「あの、Y君いますか?」

後ろのドアに現れた爽やかな彼に、クラスの女子は一斉に停止し

瞬時に色めき立った。

 

「あら、Y君なら前にいますよ。どうぞ。(ウフフ」

塒を巻いた深緑の沼に生息していた彼女たちが、一瞬にしてピンク色のフェロモンを出し

あたかも前からここはお花が咲き乱れる地上の楽園ですといった雰囲気を醸し出し

彼を迎え入れたのだ。

 

彼女らの動きは、いつもよりもゆっくりになり指先にまで女を演出していた。

 

あの瞬間の女たちを忘れない。

一瞬にしてここまで空気を変えられるとは、イケメンの力は侮れない。

また、女の本性を垣間見た気がした。

 

彼が去った後、もちろん私たちは彼の話題で持ちきりになり

「いやあ、まさか彼が来るとはね、それにしても国宝級の笑顔だったね、抱かれたいね、一度でいいからさ。いや、抱かれたいまで要求しないからさ、名前くらい呼んでほしいよね。それだけで十分生きていけるからさ。はあ、イケメンは正義だ。」

 

あのピンクの何かはどこにいったのだろうかというくらいに、素早く彼女たちは塒を巻いた深緑の沼の住民に逆戻りしていた。

 

女は瞬時に女を演出できる。

それは彼女たちの意思とは関係なしに、男の気配を感じると嫌でも女であろうとするのだ。

 

清楚系が男子にモテるというのは周知の事実だが、男子諸君はきちんと見極めなければならない。女はいつでも女を演出できるのだ。

清楚系で純粋そうに見えた彼女が付き合ってみたら、あら大変、超ビッチな過去を持っていたなんてこともざらである。

 

男性諸君が思っているような理想な女性というのは本当に稀だ。

なので、変な理想を持たないでほしい。

その理想とのギャップに苦しむのは男性だけではない。

女性だって、男性の理想に合うように生きているが、あまりにも女子への理想がしっかりしていると疲れてしまう。

 

女の子はフローラルな香りがするだとか、毛が生えないだとかそんなのは全部嘘である。

嘘であることを知った上で女性を見てほしい。

そうすれば女性も変に気を使わず、男性も変に失望せず済む。

髪の毛にも化粧にも気を使ってネイルまでキラキラにしても、指の毛を見て幻滅されたなど言われたらたまったもんじゃない。

 

そう言いながら今日も私は指の毛を処理するのだ。

女も大変な生き物である。

好きなタイプはどんな男性?

最近のマイブームは「好きな男性のタイプってどういう人?」と聞かれたらどう返そうかという妄想である。

 

こんな質問投げかけてくれる男性はほとんどいないが、もし不意に聞かれた時に上手に返せるように考えておこうというわけだ。

こんなくだらない妄想で1日の大半を過ごしているのは、ここでは目を瞑ってもらう。

 

「好きなタイプ」というのは実に厄介で、彼氏ができればその彼に寄せられて作られる。

彼氏がいなければ「面白い人」などと当たり障りのない漠然とした答えしか思い浮かばず、沢山あげれば「こいつは理想が高い」と勝手にレッテルを貼られて難しい。

 

死ぬまであと何日残っているか分からない、この大切な1日を使って私は沢山その質問の答えを考えた。

「ん~、やっぱり優しい人かな」無難すぎる。

「ん~、誰に対しても平等に接する人かな。」ちょっと違う。

「ん~、直感で決めるからその時々によって変わるのよね。」ん~面倒臭そう。

 

家で考えていても埒が明かないので、気分転換に図書館に出かけ

帰りがけに「あ~隣を歩いてくれる男性がいいな」と思わず膝を打つような答えが出た。

 

「俺についてこい」系の男性は少し苦手。

一昔前は流行ったのかもしれないけれど、その強引さに疲れてしまいそう。

こういうタイプはこっちの意向を聞きもせず、デート場所もご飯も住む家も場所もあらかじめ用意しそうである。

私の場合自分の主張もあるために

「なんやい、自分だけで決めちゃうなんて。ちょっとはこっちの考えも聞いてちょうだいよ。」となってしまう。

 

かといって「お先にどうぞ」系の男性は頼り甲斐がなさすぎる。

最近は草食系男子の増加により、「お先にどうぞ」系が多い気がするが

これでは全て女性がリードしなければならず、これも疲れてしまう。

今度のデートをどこに行くか聞いても「君が行きたいところに」

何を食べるか聞いても「君が食べたいもので」

彼女の考えに後からついて行きますというのはなんとも他人任せである。

レディーファーストか何かと勘違いしているのか、優しさなのか、優しいだけでは物足りない。

 

ということで思いついたのが「隣を歩く」系男子である。

彼は彼なりの意見やこだわりがあり、俺についてこいということもできるけれど

彼女の歩幅に合わせて隣を歩いてくれる男性だ。

心に余裕があるからこそ、彼女の歩幅に合わせられる余裕がある。

優しいだけではなく、きちんと自分の意見も持っているため頼り甲斐もある。

 

最高ではないか。

私の理想を全て満たしてくれるタイプだ。

ビバ「隣を歩く」系男子!

 

しかも、タイプを聞かれた際に

「隣を一緒に歩いてくれるような男性かな~」とだけ言えば

理想が高そうでもないし、かといって無難すぎるわけでもない。

「俺にもチャンスがあるかも」と思ってもらえそうである。

 

この質問の答えとして最も適切なのは

男性に「俺にもチャンスがあるかも」と思わせることである。

そうでないと、モテないし聞かれた意味がない。

 

そういう意味でも、この質問の答えとして最高のアンサーが浮かんだのではないかと思う。

割とこの質問は人を表すので、私はほとんどの男性に投げかける。

「好きな女性のタイプってどんな人?」

そして「私にもチャンスがあるかも」とまんまと思うのだった。

男の子女の子

恋っちゅうのはホントに、

なんでこんなに素敵なものなんだろう。

 

男の子と女の子は恋に対する考え方は同じなのかしら。

 

女の子の恋話って

「彼って私に気があるのかしら。ねーえ、だって彼ったらこういう事言ってくるのよ?どう思う?えーそうかしら、彼元々こういう性格なのよ。そういうところも好きなんだけどね。」

 

恋は盲目である。

彼の一言一言が彼女たちの胸に刻まれて、深読みして先走る。

聞いている方は「彼は彼女に気がないんだな」なんて思っていたりするけれど

渦中の彼女は気づかない。

いや、多分気づいているけど恋に溺れていたいのね。

 

だってね、恋をすると魔法がかかるのよ。

彼のために可愛くなろうっていう乙女の力は侮れない。

「彼は何色のリップが好きなんだろう」ってメイク売り場で選んでいる時間が楽しいのよ。

それに気づいてくれないのが男の子なんだけど。

 

男の子の恋話ってどんなのかしら。

よく考えてみれば、私は男の子からも恋話されるたちである。

「あの子、僕にこんなこと言ってきたんだけど、女の子的にはどんな意味?」

嬉しいのか悲しいのか彼らにとって私は気軽に話せる友人であり、女の子代表である。

「ん~~私はあの子じゃないからよくわかんないけど、女の子がそんなこと言うときは脈ありなんじゃない?」

女の子目線で勝手にアドバイスをするのが私の務め。

 

男の子は男の子にどんな恋話をするのだろうか。

男の子が恋に落ちて魔法にかかるケースは、ほとんど見たことがない。

「彼、あの子に恋して垢抜けたわね。性格も男らしくなって。」というのはほぼない。

彼らは自然体のままで、どうやって落とすか戦略を立てているのだ。

 

私は悲しいことに、いつもハンティング側だ。

ハントされる側の気持ちがわからない。

ハントされたい欲だけが年々積もって、崩れ落ちそうだ。

 

男の子に想ってもらいたいわね。

「あの子、今日僕にこんなこと言っていたけれど、それはどういう意味なんだろうか。」

私のことだけ考えて過ぎる1日を過ごしてほしい。

 

女の子はだいたいこんな感じよ。

「彼と付き合ったらどんな感じかしら?デートには何着ていこう。

待ち合わせは駅の改札で、彼が走ってくるの。

『お待たせ、待った?』って手を出して、私は『もう!遅刻するならラインぐらいしてよね!』なんて言いながら差し伸べられた手を握るの。フフッ

 

体の相性は?

彼は優しいタイプ?それとも激しいタイプ?ん~~~~!!

いやね、私ったらこんなことまで想像して…。

 

でも待って、一番大事なのは告白よね。

やっぱ帰り際に言われたい「好きです、付き合ってくれますか?」って。

それだけでいい。

それだけで充分、カッコつけなくていいから好きって言ってほしいな。

 

なんて、こんなこと考えてたらねれなくなっちゃった。

明日も早いのに、もう!」