白金高輪泉岳寺

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今手元には『日本の唱歌』という本があるのだけれど、小学校の時に持っていた『ソングソングソング』を思い出す。

配られて六年間持ってたけれど、ほとんど使われることはなかった教科書である。

 

私は小学生の頃から日本の唱歌が好きだった。

前にも書いたかも知れないが、とにかく日本人の血が流れていることに初めて気がついたきっかけがこれらの唱歌だった。

 

なかでも『浜辺の唄』が好きで、詩の世界観や海への郷愁(海なし県なのに)、あぁ多分私は前世も日本人でこの海を見つめていたんだなぁ、きっとその時も「あぁ多分私は前世も大和の国生まれでこの海を見つめていたんだなぁ」と思っていたのであろう。

 

さて、この『日本の唱歌』というのには私の知らない歌もたくさん掲載されている。

馴染みの場所の100年前の姿を歌を通して見ることができる。

『鉄道唱歌』(明治33)は新橋から出発して神戸までの鉄道線沿いの風景や情緒を歌うのだが、私の母校の大学がある高輪泉岳寺も通る。

「右は高輪泉岳寺、四十七士の墓所、雪は消えても消え残る、名は千載の後までも」という歌詞である。

また別の曲『電車唱歌』(明治38)では「大門町の左には電車鉄道会社あり、ほどなく高輪泉岳寺、四十七士のあとも訪え」とある。

 

さて、誰の小説だったかエッセイだったか、最近読んだものの中にも「ついぞ高輪の四十七士の墓を訪ねることなく死ぬのだ」みたいなことが書かれていた。

太宰治の『人間失格』だったような気がする。

 

高輪といえば、今は高級住宅街。

億ションが並びハイカラな通りが続いている。

「ちょっとそこまで」という若い奥さんが億ションのエントランスから出てくる。

一台うん千万の高級車がソコココに停車している。

 

田舎者の私は、それを横目に学校へ急いだ。

走っていく日もあった、ゆっくり歩いていく日もあった。

しかしいつでもそこは、日本の金持ちが悠々と暮らす、別世界だった。

 

話は戻るが、高輪泉岳寺。

100年前の人はそこから「四十七士の墓」を連想するらしい。

さてそれはなんだろう。

Wikipediaによると、1701年から1703年の間に起こった敵討ち的な事件らしい。

藩主の敵討ちに参加した47人は、幕府に報告、その後幕府の命令で全員切腹。

その墓が泉岳寺にあるそうだ。

 

昔から歴史の足跡を見るのが好きだった。

故郷の100年前の様子が映っている写真を見て、私はそれを想像した。

 

二年間も通った大学の近くにこんなところがあるなんて。

しかも、今ではほとんど連想されない。

高輪といえばシロガネーゼ、億ション、金持ち、勝ち組。

100年前までは高輪といえば四十七士の墓。

死ぬまでに一度は行ってみたいと、太宰も書いているではないか。

 

大学を卒業してはや一年。

この春、もう一度高輪へ行こう。

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