知らない人に手を振るの恥ずかしすぎる話

マスクをしていると、友人の顔すらわからないので、新宿駅東改札前で知らない人に手を振っていた私の話です。

顔を見て話す習慣がないので、友人でさえも髪型や服装など雰囲気で捉えているのが悪いのでしょうか。

久しぶりに大学時代の友人と、4人で飲みに行く事になりました。
新宿駅東口で待ち合わせしたのですが、ついてみるといつのまにか改札の場所が変わり、流れゆく人の中で思考停止したまま呆然としていました。これはどうでもいいのですが。

さて、集合時間まであと5分。
もう誰かついててもおかしくないよね〜、あ、いたいたっ
と手を挙げて友人に近づいて行く1人の女私。
男、私を一瞥し目を逸らす。
私、手を上げ笑顔のまま通り過ぎる。
柱に隠れる。
柱の影から彼を見る。
知らない女現れる。
消える。

「さっきさ、待ってたらめっちゃ見られたんだよね。全然知らない女なんだけど、笑ってこっち向かってくるから無視したわ。やべーよな」
「えー、それ新手のナンパじゃない?〇〇くんかっこいいからぁ」

などと話のネタにでもしてくれ。

恥ずかしいので、そのカップルが消えた後また表へ出て友人探しを再開する。
すると中央口の方から、見知った女が歩いてくるではないか。
あぁ、よかった、今ね人間違いしちゃって恥ずかしかったんだよ〜と言いたそうな私。
見知った女近づく。
手を振り笑顔の私。
女通り過ぎる。
私柱の影からみる。
女消える。

集合時間まであと3分。
皆早く来てくれ。

ダニーはいつも

ボブ・サゲットが死んだ。

彼はフルハウスのお父さんだ。ダニーだ。

真面目で綺麗好きで愛に溢れたdadだ。

ダニーは私の父だった。

思春期のDJに完全に移入していた私は、絶えずダニーの愛を受けていた。

ダニーはいつも私たちを暖かく時には厳しく愛してくれていた。

ダニーが大掃除を張り切りすぎて、家族の悪口を聞いてしまった時のあの悲しそうな顔。「お父さんは30回噛んでから飲み込めって言うけど、この前29回で飲み込んだらご飯が美味しかったの」というステフ。

実際にそうしつけている場面はないけれど、しかしダニーの言いそうな事だわと感心した。

その他にも常日頃のダニーへの鬱憤が家族の口から容赦なく出て、彼らが部屋を去った後クローゼットの中から出てきたダニーに観客は「アァー」と同情のため息が出てしまう。

親は完璧であるという子供の勝手な考えを、ダニーは覆す。

常にダニーは父親として完璧であろうとする。

しかし、ジェシーとジョーイを呼んでいる時点で完璧ではない。けれど、父親として、母親として完璧を目指している。でも元々どこか抜けている。その何処か抜けている所がダニーの魅力なのだ。

そしてそれを埋め合うのが、タナー家の在り方なのである。

ダニーが30歳の誕生日を迎えた日、その事実を受け入れられず「僕は今日さ、さ「(ジェシーとジョーイ)30歳」そうそう」といつまでも言葉にできない。3人も子供がいるのに、自分が歳をとることは肯定できないその最後の足掻きがこのエピソードである。

愛車さえもボロボロになってしまう。20代が終わる時、その象徴的な愛車さえも無くし途方に暮れるが、それを受け入れ新たな愛車と共に30歳へ歩み出す。

「今日で30歳なんだから」

ダニーが前に進む事によって、タナー家はパメラの死を乗り越えて新しい家族になっていく。

フルハウスはやっぱりダニーがいないと始まらない。

ダニーが全ての登場人物を結びつけていて、ダニーが進めば物語が前に、立ち止まれば家族みんなが立ち止まって。

ダニーが愛に溢れていたから、誰もが愛しあっている。

(ダニーのハグ癖は、タナー家の伝統になっている。)

完璧じゃない父親、気の置けない友人、頼れる兄、お隣のおっちゃん、切磋琢磨する同僚、そして良き友人としてダニーは存在する。

私は子供の時、ダニーを父親としてフルハウスを見ていた。

大人になった今は、良き友人である。

その友人がこんなに早くに逝ってしまった事が悲しい。

けれどテレビをつければいつでも会える。

私は今日も、いつものダニーに会いに行く。

本屋の歩き方

なんの映画か忘れてしまったのだけれど、何かの映画を誰かと一緒に観に行った先が神保町だった。

記憶の暗闇の中から映画のワンシーンが浮かびそうで全く浮かんで来ないのが悔しい。

私の中で神保町はそれだけだった。今日までは。

誰かと神保町に行きたいと思っていた。

幸いにも数少ない友人を思い浮かべれば、何人か候補に上がっていった。

コロナの関係もあり、流れてしまっていた神保町行きをやっと実現した今日。

一緒に行ったのは、高校の友人だった。

本が好きな彼女は、高校時代は図書委員をやっており、よく図書室に通っていた。そんな彼女にくっついて、私もよく図書室に行ったもんだ。

高校時代、図書室はある種特別な場所だった。司書さんがいて、顔を覚えてくれた。私が好きそうな本も選んでくれた。司書さんの包容力に図書室は包まれていた。騒々しい高校生活の中で、そこだけは静かで暖かい場所だった。

しかし本を読まない私は、いつも誰かの後ろについて図書室の扉を開けていく。

ついでだからなんて思って、背伸びしてシェイクスピアを借りたこともある。

そんな彼女と本屋を回るのは、全く苦ではない。

本屋に入った途端、彼女も私も点でバラバラに散り、背表紙を舐めるように見て回る。そして時々、彼女の存在を確かめるように辺りを見回すのだ。

たまに視界から消えてしまうこともあるが、だからといって探しもしない。彼女はこの本屋のどこかで何かの本を読んでいるのだから、わざわざ私がそこに割り込んで入っていくのもおかしい。なので私も売り物の本に目線を戻して、面白そうなタイトルを探していく。

これが終始一緒に回られると困る。

本屋の歩き方は人によってかなり違うからだ。友人や恋人、家族でさえも、一緒に本屋に行けばわかるが、無意識ながらも皆それぞれの歩き方があるのだ。

私は雑誌コーナーをさらっと見た後、エッセイ本の所で2、3冊手にとって見、自己啓発本の棚をさぁっと見て芸術本のコーナーへ向かう。

友人は本屋に入ったら小説を見るらしい。そういえば私の本屋の歩き方には小説のコーナーが無い。

なのでこれを機に彼女の後について、小説コーナーの見方を教わってみた。

この世には、あたりまえだが、多くの小説家がいる。私が知っているのはほんの一握りで、その中でも好きな作家は数える限りである。なのに小説家を知る努力もせず、世界を広げるのを億劫に感じているのが私の悪い所である。

知らない物語が目の前に何百、何千と並ぶ中で、彼女は一つの物語にたどり着けるのだ。

私はその方法を知らない。

どうしても小説コーナーには足が向かないのだ。だけどそれでもよしとする事にした。急には本好きになれないのだから。

本屋の歩き方は人それぞれ。

それを暗黙の了解として、自然に分かち合える人と神保町に行くべきである。

鴨川の海に

朝焼けの海が見たいから、旅館の厚いカーテンを開けて眠りについた。

朝日が水面を照らす時、深い眠りから覚められるように。

トイレに立つついでにそれを写真に収めるが、切り取られた画面の中では感情は波立たないので、頑張って朝焼けの海を見つめるけれど、どうしても瞼が重くて、海に顔を向けたまま二度寝してしまうので、変に肩が凝ってしまう。

海が唸り声をあげて夕方のビーチに押し寄せている。

その声が予想よりも大きいので、私は怖くなってすぐさまビーチから退出した。

6年前に聴いた波の音は、もっと涼しげに、暗闇の中を駆けていたはずなのに。

旅館へ帰ると今度は耳をすまさなければ聴こえない。

「あ、波の音」などと言っても、通り過ぎたバイクの残響だったりする。

刻々と変わり続け、そして変わらないもの。

海にさよならをして、私はここに戻ってきた。

冬の陽

風が凪いてきた。

起きた時には洗濯物がバタバタ音を立てて、カーテン越しに人影のように騒いでいたのに、今、外は静かだ。

冬の、陽の短いのに明るい昼過ぎ。

先ほど描いた下書きの絵に、絵の具をつけようと水差しに綺麗な水を足した。

外の清らかな空気が、窓を開けてもこの部屋には入ってこないのは、年の瀬の掃除を後回しにしているから。

ふと横に目をやると、衣装掛けにかけてある服が生活感を出している。

毎年この服を着ているなと思い、去年、一昨年、学生の頃、友人達に囲まれて過ごした服が、偏りながらハンガーにぶら下がっている。

きっと私は

思い、本を閉じた

ストーブの音だけが、この部屋に響いている。

赤鼻のトナカイ

こんな年の瀬に、吹き出物ができてしまった。

わざわざこんな年の瀬に。

クリスマスはとびっきりめかしこんで、メイクの勉強だってしちゃって、髪型だってこだわって、なんて。

それなのに。

鼻の頭の吹き出物のせいで、赤鼻のトナカイに降格してしまうなんて。

この一年、吹き出物ができなかったのに。

とても綺麗な、23,4歳らしい麗しいお肌を保っていたのに、なんで。

なぜ、こんな年の瀬に。

そういえば、前髪をセンター分けにしたのです。

私にとっては結構思い切ったことなのです。

なのに、なのにです。

誰からも何も言われなかったとです。

それは似合い過ぎているからなのかー!

それとも似合わな過ぎて何もいえないからなのかー!

なんて、

思ったりなんかして。

まあ、他人は私ほどに私を見ていないということみたいなので、この吹き出物にも触れないでいただきたい、なんて。