本屋の歩き方

なんの映画か忘れてしまったのだけれど、何かの映画を誰かと一緒に観に行った先が神保町だった。

記憶の暗闇の中から映画のワンシーンが浮かびそうで全く浮かんで来ないのが悔しい。

私の中で神保町はそれだけだった。今日までは。

誰かと神保町に行きたいと思っていた。

幸いにも数少ない友人を思い浮かべれば、何人か候補に上がっていった。

コロナの関係もあり、流れてしまっていた神保町行きをやっと実現した今日。

一緒に行ったのは、高校の友人だった。

本が好きな彼女は、高校時代は図書委員をやっており、よく図書室に通っていた。そんな彼女にくっついて、私もよく図書室に行ったもんだ。

高校時代、図書室はある種特別な場所だった。司書さんがいて、顔を覚えてくれた。私が好きそうな本も選んでくれた。司書さんの包容力に図書室は包まれていた。騒々しい高校生活の中で、そこだけは静かで暖かい場所だった。

しかし本を読まない私は、いつも誰かの後ろについて図書室の扉を開けていく。

ついでだからなんて思って、背伸びしてシェイクスピアを借りたこともある。

そんな彼女と本屋を回るのは、全く苦ではない。

本屋に入った途端、彼女も私も点でバラバラに散り、背表紙を舐めるように見て回る。そして時々、彼女の存在を確かめるように辺りを見回すのだ。

たまに視界から消えてしまうこともあるが、だからといって探しもしない。彼女はこの本屋のどこかで何かの本を読んでいるのだから、わざわざ私がそこに割り込んで入っていくのもおかしい。なので私も売り物の本に目線を戻して、面白そうなタイトルを探していく。

これが終始一緒に回られると困る。

本屋の歩き方は人によってかなり違うからだ。友人や恋人、家族でさえも、一緒に本屋に行けばわかるが、無意識ながらも皆それぞれの歩き方があるのだ。

私は雑誌コーナーをさらっと見た後、エッセイ本の所で2、3冊手にとって見、自己啓発本の棚をさぁっと見て芸術本のコーナーへ向かう。

友人は本屋に入ったら小説を見るらしい。そういえば私の本屋の歩き方には小説のコーナーが無い。

なのでこれを機に彼女の後について、小説コーナーの見方を教わってみた。

この世には、あたりまえだが、多くの小説家がいる。私が知っているのはほんの一握りで、その中でも好きな作家は数える限りである。なのに小説家を知る努力もせず、世界を広げるのを億劫に感じているのが私の悪い所である。

知らない物語が目の前に何百、何千と並ぶ中で、彼女は一つの物語にたどり着けるのだ。

私はその方法を知らない。

どうしても小説コーナーには足が向かないのだ。だけどそれでもよしとする事にした。急には本好きになれないのだから。

本屋の歩き方は人それぞれ。

それを暗黙の了解として、自然に分かち合える人と神保町に行くべきである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です