画面越しにさようなら

はらはら舞う雪を
ただ眺めていた朝に
遠い記憶は蘇り
そして消えていく

今日の喜びを
忘れないようにと書いた
日記は埃を被り

今日の切なさに
思いを馳せるために撮った
写真は引き出しの奥

3月の風は
まだ冷たくて
春の訪れに気づかないフリ

人を愛しすぎるから
別れの季節は好きではなく

言葉にならない想いに
ただ涙が頬を伝うだけ

振り返れば
いつもそうだったと
風が囁く

空を見上げれば
満天の星
いつの事か思い出せない
けれど確かに
あなたはそこにいて
そして私も

耳に流れるジャズナンバーは
仲間と過ごしたあの日々を
鮮明に思い出させてくれるので

孤独に震える夜には
思い出のリズムに揺れながら
隣にいたあなたを想っています


2年前に書いた詩が再び心に蘇ってきたのは、画面越しにでもあなたに会えたからでした。

この2年、空白の時間が多すぎて、私だけポツンと置いてかれたような気がいたします。

顔を見ればすぐに、学生時代に戻れるのに
それは逆に、あの頃には2度とは戻れないという現実を突きつけられる瞬間でもあるようです。

思い出を語るほどに、それは深まってゆくばかりで、それはそれで良いとしたこの2年間の努力も、その時ばかりは無効になってしまうのですね。

今でも、真っ白な結晶がゆらりゆらりと降りてくるのを
こんなにも鮮明に思い出せるのに。

心のオアシス

久しぶりにジャズの事を思い出した。
といっても、今でも常にそれは私の頭の中にある程度存在しているので、久しぶりという表現も変な感じだけれど。
今は肌で感じるような響きを持って、久しぶりにジャズを感じている。

大学の3年半だけ、私はジャズをやっていた。卒業以来、ジャズをやっていないので、もう2年やっていないことになる。
それでも私はたまにジャズを聴いている。
「ジャズを全く聴いていない」とかつての仲間が言おうと、私は生活の中にしっかりとジャズの余地を残している。

でもそれは、ただ単にジャズというものを聴いているにすぎない。その中には、あの頃のような熱中、執拗(と言ってもそんなに真面目なピアニストではなかったが)はない。

それなのに今日、テレビから何気なく流れてきたジャズのリズムに、あの頃の、学生時代の熱中みたいなものを感じていた。

私はあの時、確かに生きていた、と思った。
それは2年間の空白がそう思わせたのか、退屈な毎日がそう思わせたのか、はたまた過去の私がそっと教えてくれたのかわからないが、生の喜びというものが私の内側からフツフツと湧き上がり、どうしても止まらず、この文章を書いている。

私は明日のアルバイトが嫌で眠れない。
今のバイトが嫌だと思ったことはないが、システムが変わったので慣れるまでに時間がかかるのが嫌なのだ。
変化がとても嫌いなのだ。

そんな精神状態で、あのジャズを聴いたので、もしかしたらセンチメンタルな気持ちになっていたのかもしれない。
あの頃と何も変わっていないことに苛立ちながら、あの頃と何もかも変わってしまったことに戸惑いながら、あの頃と何も変わらないジャズの音色がそう思わせたのかもしれない。

生きていると、時々日々の雑務に追われて、生きているということに気づけなくなる時がある。後から思えば生きていたと思うのだけれど、渦中の時は考える暇もなく時間が過ぎていく。
そんな雑に生きそうになる時に、ジャズは私に何かを思い出させようとするのかもしれない。

目の前のことしか見えなかった心が、ほんの少しだけ和らいで、ほんの少しだけ前向きになろうと思える。
だからきっと、わたしにとってジャズはオアシスなのだ。

寝る。

知らない人に手を振るの恥ずかしすぎる話

マスクをしていると、友人の顔すらわからないので、新宿駅東改札前で知らない人に手を振っていた私の話です。

顔を見て話す習慣がないので、友人でさえも髪型や服装など雰囲気で捉えているのが悪いのでしょうか。

久しぶりに大学時代の友人と、4人で飲みに行く事になりました。
新宿駅東口で待ち合わせしたのですが、ついてみるといつのまにか改札の場所が変わり、流れゆく人の中で思考停止したまま呆然としていました。これはどうでもいいのですが。

さて、集合時間まであと5分。
もう誰かついててもおかしくないよね〜、あ、いたいたっ
と手を挙げて友人に近づいて行く1人の女私。
男、私を一瞥し目を逸らす。
私、手を上げ笑顔のまま通り過ぎる。
柱に隠れる。
柱の影から彼を見る。
知らない女現れる。
消える。

「さっきさ、待ってたらめっちゃ見られたんだよね。全然知らない女なんだけど、笑ってこっち向かってくるから無視したわ。やべーよな」
「えー、それ新手のナンパじゃない?〇〇くんかっこいいからぁ」

などと話のネタにでもしてくれ。

恥ずかしいので、そのカップルが消えた後また表へ出て友人探しを再開する。
すると中央口の方から、見知った女が歩いてくるではないか。
あぁ、よかった、今ね人間違いしちゃって恥ずかしかったんだよ〜と言いたそうな私。
見知った女近づく。
手を振り笑顔の私。
女通り過ぎる。
私柱の影からみる。
女消える。

集合時間まであと3分。
皆早く来てくれ。

ダニーはいつも

ボブ・サゲットが死んだ。

彼はフルハウスのお父さんだ。ダニーだ。

真面目で綺麗好きで愛に溢れたdadだ。

ダニーは私の父だった。

思春期のDJに完全に移入していた私は、絶えずダニーの愛を受けていた。

ダニーはいつも私たちを暖かく時には厳しく愛してくれていた。

ダニーが大掃除を張り切りすぎて、家族の悪口を聞いてしまった時のあの悲しそうな顔。「お父さんは30回噛んでから飲み込めって言うけど、この前29回で飲み込んだらご飯が美味しかったの」というステフ。

実際にそうしつけている場面はないけれど、しかしダニーの言いそうな事だわと感心した。

その他にも常日頃のダニーへの鬱憤が家族の口から容赦なく出て、彼らが部屋を去った後クローゼットの中から出てきたダニーに観客は「アァー」と同情のため息が出てしまう。

親は完璧であるという子供の勝手な考えを、ダニーは覆す。

常にダニーは父親として完璧であろうとする。

しかし、ジェシーとジョーイを呼んでいる時点で完璧ではない。けれど、父親として、母親として完璧を目指している。でも元々どこか抜けている。その何処か抜けている所がダニーの魅力なのだ。

そしてそれを埋め合うのが、タナー家の在り方なのである。

ダニーが30歳の誕生日を迎えた日、その事実を受け入れられず「僕は今日さ、さ「(ジェシーとジョーイ)30歳」そうそう」といつまでも言葉にできない。3人も子供がいるのに、自分が歳をとることは肯定できないその最後の足掻きがこのエピソードである。

愛車さえもボロボロになってしまう。20代が終わる時、その象徴的な愛車さえも無くし途方に暮れるが、それを受け入れ新たな愛車と共に30歳へ歩み出す。

「今日で30歳なんだから」

ダニーが前に進む事によって、タナー家はパメラの死を乗り越えて新しい家族になっていく。

フルハウスはやっぱりダニーがいないと始まらない。

ダニーが全ての登場人物を結びつけていて、ダニーが進めば物語が前に、立ち止まれば家族みんなが立ち止まって。

ダニーが愛に溢れていたから、誰もが愛しあっている。

(ダニーのハグ癖は、タナー家の伝統になっている。)

完璧じゃない父親、気の置けない友人、頼れる兄、お隣のおっちゃん、切磋琢磨する同僚、そして良き友人としてダニーは存在する。

私は子供の時、ダニーを父親としてフルハウスを見ていた。

大人になった今は、良き友人である。

その友人がこんなに早くに逝ってしまった事が悲しい。

けれどテレビをつければいつでも会える。

私は今日も、いつものダニーに会いに行く。

本屋の歩き方

なんの映画か忘れてしまったのだけれど、何かの映画を誰かと一緒に観に行った先が神保町だった。

記憶の暗闇の中から映画のワンシーンが浮かびそうで全く浮かんで来ないのが悔しい。

私の中で神保町はそれだけだった。今日までは。

誰かと神保町に行きたいと思っていた。

幸いにも数少ない友人を思い浮かべれば、何人か候補に上がっていった。

コロナの関係もあり、流れてしまっていた神保町行きをやっと実現した今日。

一緒に行ったのは、高校の友人だった。

本が好きな彼女は、高校時代は図書委員をやっており、よく図書室に通っていた。そんな彼女にくっついて、私もよく図書室に行ったもんだ。

高校時代、図書室はある種特別な場所だった。司書さんがいて、顔を覚えてくれた。私が好きそうな本も選んでくれた。司書さんの包容力に図書室は包まれていた。騒々しい高校生活の中で、そこだけは静かで暖かい場所だった。

しかし本を読まない私は、いつも誰かの後ろについて図書室の扉を開けていく。

ついでだからなんて思って、背伸びしてシェイクスピアを借りたこともある。

そんな彼女と本屋を回るのは、全く苦ではない。

本屋に入った途端、彼女も私も点でバラバラに散り、背表紙を舐めるように見て回る。そして時々、彼女の存在を確かめるように辺りを見回すのだ。

たまに視界から消えてしまうこともあるが、だからといって探しもしない。彼女はこの本屋のどこかで何かの本を読んでいるのだから、わざわざ私がそこに割り込んで入っていくのもおかしい。なので私も売り物の本に目線を戻して、面白そうなタイトルを探していく。

これが終始一緒に回られると困る。

本屋の歩き方は人によってかなり違うからだ。友人や恋人、家族でさえも、一緒に本屋に行けばわかるが、無意識ながらも皆それぞれの歩き方があるのだ。

私は雑誌コーナーをさらっと見た後、エッセイ本の所で2、3冊手にとって見、自己啓発本の棚をさぁっと見て芸術本のコーナーへ向かう。

友人は本屋に入ったら小説を見るらしい。そういえば私の本屋の歩き方には小説のコーナーが無い。

なのでこれを機に彼女の後について、小説コーナーの見方を教わってみた。

この世には、あたりまえだが、多くの小説家がいる。私が知っているのはほんの一握りで、その中でも好きな作家は数える限りである。なのに小説家を知る努力もせず、世界を広げるのを億劫に感じているのが私の悪い所である。

知らない物語が目の前に何百、何千と並ぶ中で、彼女は一つの物語にたどり着けるのだ。

私はその方法を知らない。

どうしても小説コーナーには足が向かないのだ。だけどそれでもよしとする事にした。急には本好きになれないのだから。

本屋の歩き方は人それぞれ。

それを暗黙の了解として、自然に分かち合える人と神保町に行くべきである。

鴨川の海に

朝焼けの海が見たいから、旅館の厚いカーテンを開けて眠りについた。

朝日が水面を照らす時、深い眠りから覚められるように。

トイレに立つついでにそれを写真に収めるが、切り取られた画面の中では感情は波立たないので、頑張って朝焼けの海を見つめるけれど、どうしても瞼が重くて、海に顔を向けたまま二度寝してしまうので、変に肩が凝ってしまう。

海が唸り声をあげて夕方のビーチに押し寄せている。

その声が予想よりも大きいので、私は怖くなってすぐさまビーチから退出した。

6年前に聴いた波の音は、もっと涼しげに、暗闇の中を駆けていたはずなのに。

旅館へ帰ると今度は耳をすまさなければ聴こえない。

「あ、波の音」などと言っても、通り過ぎたバイクの残響だったりする。

刻々と変わり続け、そして変わらないもの。

海にさよならをして、私はここに戻ってきた。

冬の陽

風が凪いてきた。

起きた時には洗濯物がバタバタ音を立てて、カーテン越しに人影のように騒いでいたのに、今、外は静かだ。

冬の、陽の短いのに明るい昼過ぎ。

先ほど描いた下書きの絵に、絵の具をつけようと水差しに綺麗な水を足した。

外の清らかな空気が、窓を開けてもこの部屋には入ってこないのは、年の瀬の掃除を後回しにしているから。

ふと横に目をやると、衣装掛けにかけてある服が生活感を出している。

毎年この服を着ているなと思い、去年、一昨年、学生の頃、友人達に囲まれて過ごした服が、偏りながらハンガーにぶら下がっている。

きっと私は

思い、本を閉じた

ストーブの音だけが、この部屋に響いている。

赤鼻のトナカイ

こんな年の瀬に、吹き出物ができてしまった。

わざわざこんな年の瀬に。

クリスマスはとびっきりめかしこんで、メイクの勉強だってしちゃって、髪型だってこだわって、なんて。

それなのに。

鼻の頭の吹き出物のせいで、赤鼻のトナカイに降格してしまうなんて。

この一年、吹き出物ができなかったのに。

とても綺麗な、23,4歳らしい麗しいお肌を保っていたのに、なんで。

なぜ、こんな年の瀬に。

そういえば、前髪をセンター分けにしたのです。

私にとっては結構思い切ったことなのです。

なのに、なのにです。

誰からも何も言われなかったとです。

それは似合い過ぎているからなのかー!

それとも似合わな過ぎて何もいえないからなのかー!

なんて、

思ったりなんかして。

まあ、他人は私ほどに私を見ていないということみたいなので、この吹き出物にも触れないでいただきたい、なんて。

白金高輪

忠臣蔵の四七士の墓へ、やっと行けた。

泉岳寺にあるその墓は、私がいった時も、”ファン”が推しにお酒を供えるために少し賑わっていた。

 

港区の超一等地。

ちょっと風情は残っているけれど、都会の中に急に現れる江戸時代の風。

47個の墓が隣と間隔なく並んでいるのは、彼らが正座をし切られた頭を膝にしたまま埋められているからだ、と”ファン”が語っているのを盗み聞いた。

最初、住職さんが話しているのだと思って聞いていたが、振り向いたら”ファン”と思しき人が住職さんに話していたのだった。

 

主人を殺され、敵討ちをとった四七人の武士。

なぜ彼らが、今でも語り継がれるのか。

それは、その勇ましさもそうだけれど、敵討ちののちに”あえて”自ら幕府に申請したという武士に生きた生き様なのではないか。

そう考えながら泉岳寺を後にした。

 

泉岳寺から卒業した大学までが近かったので、同じ大学を卒業した彼と2年ぶりに学校を訪れることにした。

高輪という、高級住宅街の路地を歩いた。

地図は持たず、学校の隣の高層マンションを頼りに路地から路地へと進んで行く。

「ねえ、この家お洒落じゃない?いくらくらいするのかな」

「ねえ、あのマンションイタリア風だね。いくらくらいするのかな」

「ねえ、見てこの車。いくらくらいするのかな」

「ねえ、この家の土地広すぎない?いくらくらいするのかな」

と価格査定をしている間に学校へ着いた。

 

ちょうど授業が終わった時刻らしく、出て行く学生ばかりだった。

私たちは、校門の警備員に止められないかとヒヤヒヤしながら数年ぶりに学校へ入っていった。

それはあの頃と全く変わらずに、私たちを受け入れた。

廊下もトイレも、教室も、授業中の静けさも、私の知っているものだった。

その後、食堂で休憩をした私たちは、私たちよりも垢抜けた大学生に囲まれていた。

パーテーション越しの彼らは、紛れもなくあの頃の私だった。

それにしても、お洒落な人が多いなこの学校は。

 

彼が歩数でピクミンを育てているので、その後目黒駅まで歩くことにした私たちは、次は白金という地に足を踏み入れた。

「ねえ、このマンションさ、ロビー見てよ。あんなでかいソファー見たことないわ。誰が座るんだろうね」

「ねえ、ここだけ国が違うわ。建売だろうけど高いだろうね」

「ねえ、見て見て!あの人、あんな高そうなマンション入ってくよ。普通の人っぽいけどねえ。めっちゃ金持ちだろうね」

「ねえ、この家誰も住んでないみたい。千と千尋の最後の車みたいになってるよ。ほら蔓がタイヤに。こんな高価な土地なのに、どういうことなんだろうね」

 

目黒駅についた私たちはヘトヘトになりながら、最後の力を振り絞って電車に乗って帰っていった。

 

彼のピクミンはたくさん仕事をしてくれた上に、確実に増えた。

ピクミンが死ぬものでない、それだけでそのアプリが好きになった。